12球団の監督スピーチにおける「謝罪」について考える(2018年10月13日)

最終戦のスピーチ

ここ1ヶ月、福良監督への続投要請や西村さんの監督就任など、オリックスファンとしてテンションが上がらないことが非常に多く、ブログの更新を1ヶ月以上もの間サボるという、そういう結果になった。書きたいネタやデータは色々あるのだが、書こうという気にならないのだ。

今はドラフトのことを考えるのでいっぱいで、ネガティブな気持ちはつかの間忘れつつあるが、2019年シーズンも今までどおりオリックスを応援するのは、ちょっと距離を置きたくなってしまっている自分がいる。

とか漠然と思いつつ、最近は色々なチームの最終戦を見たりしていた。各チームのホーム最終戦の恒例となっているのが、監督のスピーチと引退する選手のセレモニーである。特にスピーチを聞いていると、その人についての色々な情報(人柄、考え方など)を知ることができ、毎日でもスピーチしてほしいと思うくらいだった。

そして、何人かの監督は「このような結果に終わり、大変申し訳ありませんでした。」などと深々と頭を下げるのだが、自分はこれを聞いていて、なんとも言えない違和感が湧き起こるのを感じた。その違和感の正体はなんなのだろうと考えていたが、最近になって答えが見つかりつつあるので、この記事にまとめたいと思う。

1.12球団の監督の本拠地最終戦スピーチにおける「謝罪」

まず、各チームの監督スピーチから、最も謝罪の程度が深いと思うフレーズを抽出する。パ・リーグは、パ・リーグTVのおかげで全文をそのまま聞けたが、セ・リーグは記事から抜き出したものが多いので、正確ではない部分があるかもしれない。

セ・リーグ

●広島・緒方監督 なし

●ヤクルト・小川監督 なし

●巨人・高橋監督「本当に申し訳ありませんでした。」

●DeNA・ラミレス監督 なし

●中日・森監督「本当に申し訳なく思います。」

●阪神・金本監督「本当に心よりおわび申し上げます。」

パ・リーグ

●西武・辻監督 なし

●ソフトバンク・工藤監督 なし

●日本ハム・栗山監督「本当にすみませんでした。」

●オリックス・福良監督「本当に申し訳ありませんでした。」

●ロッテ・井口監督「責任を感じております。」

●楽天・平石監督代行「本当に申し訳ありません。」

Bクラスの球団を中心として、12球団中7球団の監督が謝罪の要素を含むスピーチをしていることが分かった。

特に、金本監督の謝罪は、交通事故で誰かの命を奪ってしまった人が、その遺族に向けて発する謝罪のようだ。その他には4人の監督が「本当に申し訳ありません」レベルの謝罪で、栗山監督と井口監督は比較的ライトな謝罪だ。(井口監督は謝罪ではないかもしれないが、自分の非があることを認めているのは間違いない。)

また、中日の森監督は、ファンに対する「ごめん」という語り口がとても印象的だった。(個人的に非常に気持ちがいい「謝罪」だと感じた。)

2.なぜ「謝罪」するのか?

監督が持つ権限には12球団で色々な差があるはずだが、チームの戦い方を決める最上位者であることには違いないはずだ。(というか、それが監督の定義の一種であるとも言える。)

その意味で、結果の振るわなかった球団のトップが謝罪するのは自然なようにも思うが、謝罪というのは何か悪いことをしてしまったときにするものだ。あるいは、自分がしたことが、回り回って何か悪い結果を生んでしまったときに、その被害者に対して行うものだろう。

したがって、「謝罪」する監督は、自らに「過失」や「罪」があると自覚しているのだ。シーズンの順位が決まりかけてくると、「自分のここが駄目だ。」とか「自分はここが良くない。」とか「俺のせいだ。」などと毎日のように思っているからこそ、本拠地最終戦のスピーチでそういう発言が出るのだ。

と、そこまでは分かる。それでは、彼らの「過失」や「罪」は一体なんなのだろうか?

勝てなかったことは、確かに残念な結果ではあるが、それは相手があっての真剣勝負の中での結果だ。仮に12球団の監督全員が、非常に合理的で有能な采配をしたとしても、どこかが優勝し、別のどこかは最下位になる。選手(人間)が違うのだから、結果が異なるのは当たり前のことだ。

それなのに「謝罪」をするのは、何か具体的な理由があるのだろう。

3.もし「謝罪」が「勝てなくて、申し訳ありませんでした。」という意味ならば

この場合の謝罪は、以下のように解釈できる。「監督の無能さ、選手たちの力の無さなど、勝てなかった要因は色々あるが、チームを指揮する監督として代表して謝罪する」ということだ。

自分が選手だったとすると、「自分は精一杯練習もしてプレーしているのに、誰かに謝らなければいけないのは、どういうことだ。」と絶対思う。ファンとしても、選手たちが精一杯プレーしていることを知っている。負けようとか、負けてもいいと思ってプレーしている選手は決していないことを知っている。

監督だって、いくら無能であっても、負けようとして采配をしようとする人はいない。(人類の歴史の中で、「無能」と称される将軍や指揮官は少なくないが、彼らだって勝つために最善を尽くしていたはずだ。ましてや万単位の兵士の命や国そのものの命運を左右する戦いの責任を追うのだから。。)

それなのに謝罪をされると、「チームは能力のない人間が比較的多く、この結果になったことは申し訳ない。」ということになり、「無能であること」を謝罪することに他ならないと感じられてしまう。そしてそれは、一般に多くの人間を否定することになる。

当然、私もそういう謝罪を聞いていると、なんとも微妙な気持ちになるわけだ。つまり、こんなことを思う。

「いや、相手がある中で最大限に頑張った結果なんだから、それを謝るというのはおかしくないか?それとも頑張ってなかったのか?チーム全体の能力が無くて申し訳ない、というのは、そんなの編成の問題であって、現場の誰の責任でも無いぞ。」

と、なんとも気持ちの悪い印象を受けるのだ。

4.もし「謝罪」が「自分の采配が悪く、申し訳ない。」という意味ならば

この場合、謝罪の意図は分かる。

采配というのは常に結果論で語られるし、何が正解だったかは分からない世界だ。したがって、この場合の謝罪は「自分がふるってきた采配が悪かった可能性があり、もっといい選択ができていたら、もっと良い結果になったと思われる。本当に申し訳ない。」と言い換えられる。これは、事実はそんなことはないかもしれないが、謙虚さが感じられ、(日本人好みの)非常に納得の行く謝罪だ。

しかし、もしその監督の采配・起用に、実際に何か問題が認められる場合、謝るくらいならば、もっと人(ファン)の不満の声を受け止めて、采配・起用に反映しておいてほしかった、と思う。そして、そのことに謝罪する以上は、来年に向けてどう改善するかを述べないと意味がない。

つまり、そういう謝罪に対してはこう思うわけだ。

「いや、自分たちファンは何度もネット(掲示板やブログやツイッターど)やら、球場でのブーイングやらで、采配や起用に対して意思表示をしてきたぞ。それなのに全然それを改めようとしなかったのに、今さら謝られても上辺だけの謝罪にしか聞こえない。そして、謝るくらいならそれをどう改善してくのかを明確にするのが、誠意の示し方だろう。」

ただしこの場合は、不満を感じるだけであり、気持ち悪さはあまり感じない。

5.何が言いたいかというと①:漠然と「謝罪」する監督こそ、無能である。

監督の仕事としては、効果的な采配を振るうとか、起用法を考えるとか、色々あるのだと思うが、チームを率いていく立場であるという点で、人を引っ張っていくことが最も重要だ。つまり、全員の上司なのだ。そんなトップの立場から漠然とした「謝罪」の言葉が発せられると、ファンとしては、

  • そもそも相手がある中の勝負なのだから勝ち負けは兵家の常なのに、なぜ謝るのか。たかだかスポーツなのだから「謝罪」されるほどのことはない。「謝罪」されると何か自分(ファン)が結果を責めているような気持ちになる。
  • 「謝罪」の中身が示されない場合は、漠然とチーム全体の結果について「謝罪」していることになり、選手たちにも「罪」や「過失」がある印象を受ける。(そして、それをファンが責めているかのような気持ちになる。)
  • 「謝罪」の中身が示され、それが客観的にも確かにそうである場合は、約半年あるシーズンの中で改善しようとする努力を怠ったのか?という気持ちになる。つまり、「謝罪」するくらいなら、シーズン中にもっと頑張ってほしかった、という気持ちになる

ということになる。時間が限られたスピーチではあるが、漠然と「謝罪」するような監督は、つまりは思慮が圧倒的に足りなく、そもそも監督たる器ではないのだ。常に思考している監督であるならば、「謝罪」の中身を分析できているわけなので、「謝罪」すべき何かがそもそもあるのか、そして、何かがある場合は具体的に何に対して「謝罪」するかを明確に述べ、その「改善」についても示すことができるはずだ。

2018年は、「謝罪」を行った監督が7名いたが、そういう真に中身のある(熟慮の上、誠意のある)「謝罪」ができた監督は一人もいなかった。唯一、Bクラスで「謝罪」をしなかったのがDeNAのラミレス監督だ。ラミレス監督は、原因と結果を的確に分析しようと試み、そして実際に行い、次にどうすべきかを考えられているに違いない。

6.何が言いたいかというと②:とにかく「謝罪」するもの、という風潮になっていないか?

これは本題から外れるが、何か形式的に「謝罪」をすることが好ましいというような、そういう風潮になっていないか?日本全体に蔓延るこの風潮が、野球というスポーツを通じて、浮き上がっているのではないか?

何も言わないよりもいいのかもしれないが、「謝罪」する以上(しかも「本当に申し訳ありません」という程度の言葉を使う以上)、何に対して「謝罪」をし、そしてその中身についてどうするのかを述べないとそこに誠意は全く感じられない

7.こういう「謝罪」ができる監督がいい。

2008年、落合監督の5年目シーズン:貯金3を作っての3位のシーズンでの挨拶である。何に対して「謝罪」しているのか、そして「その責任」をどういう形でとるのか、ということが明確に述べられている。こういう「謝罪」ができる人間こそ、「有能」と形容されるに相応しい。

 

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