■参議院選の結果
ざっくり言うと、自民・公民:減、立憲民主:現状維持、国民民主:増、参政:増となるだろう。
立憲民主は下馬評と異なり、議席数を伸ばすことができなかった。旧民主党の苦い思い出がやはり人々に残っているのではないかな。その意味で、旧民主党の象徴のひとりといえる野田さんが代表であることが選挙ではマイナスだったのでは。
自公減少分は「根本的な問題を正そう」という政党に流れたと言えるのではないか。つまり、失われた30年というフレーズがあるが、「明らかに今の日本の政策は失敗続きであり、何かを根本から変える必要がある」という層が自公を見限って国民民主党・参政党に流れたのではないか。
■比較第一党だから続投
「比較第一党という責任ある立場なので続投」のように聞いて、実は私は「確かにそれは一理ある」と感じた。なぜならば、そもそも過半数を取る政党がなくてはならない事は全くないからだ。事実、自民党は公明党と連立を組んでこれまで過半数を実現してきた。また、過半数を取る政党がなくても、誰かが内閣総理大臣に選出される。その有力候補たる比較第一党の党首には十分とみなせる信任があることを否定できないと思ったからだ。
しかし、昨年の衆議院選、今回の参議院選と国政選挙で二度も「敗北」した。自公は大幅に議席を減らした。この事実は重い。明らかに今の政権に対する不満があると認められる訳であり、結局のところ、詭弁かな・・・と感じている。
■過半数を取れなくても健全な政策合意ができる政権運営能力が大事
今回の選挙では、与党の議席が野党に流れた結果、存在感を増す野党が現れている。全体的に、現在の日本全体に関する不満・不安が解消されない以上は、特定の政党が安定的に過半数を獲得することは、今後想定しにくい。
そうなると、与党(主には、少数与党であるものの、選出された内閣総理大臣の所属する政党)にとって重要な能力は、政策本位でどれだけ野党と協調できるか、という点だ。野党も、何でも反対ではなく、政策本位でどれだけ与党と協調できるかが大事だ。
そういったリーダーシップ・実行力がもはや必要なのであり、その意味で言うと前回の衆議院選で躍進した国民民主党との協調を十分に実現できなかった自民党の政策運営能力が低く評価されるのは当然だろう。(そして、民主主義として、健全なメカニズムであると思う。)
だから、次の総理大臣がいつ・誰になるか分からないか、そういった能力をアピールしてほしいものだ。若い人ということになるのかなあ・・・。
■メディアに期待したいこと
毎日、何の法案が審議されて、何の採決が取られて、どこの党が賛成でどこの党が反対で、という事実を淡々と流してほしい。つまり、与党と野党がそれぞれ何をしたのか、客観的に国民が確認して評価できる土壌を作ってほしい。
そうでないと、何でもかんでも反対する野党が生まれ、国政が遅滞してしまう。そういった政党は、投票によって排除していかなければならない。(そんな政党はないと信じたいが、もし現れたときに排除するメカニズムがあることが重要という話。)
■分断って何?
某政党が分断を引き起こしているかのように批判されているが、各政党が自分たちの主義政策を主張して何が悪いのか?それにより生じる国民間の意見の差異が分断なのか?それとも、自国民を最優先する政策を主張することで、日本人と外国人の分断を招いているという事だろうか?
(あと、個人の感想だが、某政党が支持されているのは今の日本を根本から改善しようという理想論的姿勢が刺さったのではないかと思われ、外国人に関する論点が躍進を支えた訳ではないと思う。「外国人問題」という言葉にも、大きく違和感がある。)
それを「分断だ分断だ」と騒ぐことが、分断を生むことに他ならないのでは?
選択的夫婦別姓のような優先度の低い問題を取り上げて意見の対立を煽ることが、分断を生むことに他ならないのでは?
どうしても、メディアによる報道は時間的制約があるし、ストーリーを作らなければならないので、全ての物事を十分多角的に報道することは非常に難しい。それは分かる。だが、時にして一方的と見える報道がされることもある。それは間違いなく、人々の分断を助長している。まずそのことを自覚してはどうか。
■党首討論をやるなら、半日くらいやってくれない?
様々な媒体で1時間だか2時間の党首討論を何度もやるくらいなら、どこかでまとめて徹底的に半日くらいやってくれないものだろうか?1対1なら1時間でも十分といえるのだが、これだけ党首がいると1時間ではまともな討論が実現できず、非常に薄っぺらいと感じる。
■メディアが事前に獲得議席数の予測を公表するのはOKなのか?
プレ投票を行っているようなもので、人々の投票行動に非常に大きな影響を与えていると思う。完全になくした方が民意が反映されるのではないだろうか?
■実態に基づかない主張をする政党は許されるのか?
メディアのことを悪く書いたので、次は政党のことを。
一部の政党(の立候補者)が、事実とは異なることを述べて、自身の政策を訴えることがあったのではないか、と言われている事象がいくつかあるようである。おそらくまだ決着はついていないと思われるので何とも言えないものの、実際にこのような事象が起きているのであれば、故意か過失か分からないが、そんなことがまかり通ってしまってはいけないだろう。
ただ、演説という文脈の中で、一言一正しく話せ、ということが難しいのも分かりはする。線引きも難しい。だが、何も処罰なしで終わってはいけないだろう。
■総裁選やるなら人数を絞ってくれない?
先に書いた党首討論の件と被るが、総裁候補がむやみやたらに多くても、濃度が薄まるだけなので、ある程度人数を絞ってほしい。そういう動きが無い時点でやる気がないように私には見える。
■公明党とかってアリなのか?
だいぶ声にしにくいことを書いたが、これは物心ついた頃から(?)思っていることで、アリなのだろうか?まず言っておくと、公明党が創価学会的な宗教要素を含んだ政治的活動をしていないのは分かる。
だが、特定の宗教で結びついた人々からなる政党が存在する意味が何かあるはずで、信条・信義に基づく何かを持っているはずだ。これを考えると、存在して良いのかと思ってしまう。単純に分からないので、一市民として理解させてもらいたいのだ。
公明党だけ挙げても良くないので、幸福の科学とかももちろん同じ話だ。仏教、神道、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教など何でも良いのだが、特定の宗教で結びついた政治団体を怖い・危険と感じるのは自然なことだろう。
気になるのが、非学会員の公明党議員がどれだけいるのか、という点。「いやいや、学会員は意外と少なくて、2割くらいです。」とかだと良いのだけれど。
あと、そんな公明党も学会員の高齢化の結果なのか、年々獲得議席数を減らしているように思う。連立先としての賞味期限はいつまでなのだろうなあ。あと20年くらい?
■選挙で負けて「責任を取って辞任する」って何?
不祥事や問題を起こして、「責任を取って辞任します」は良く分かる。
「選挙で負けたので、責任を取って辞任します」は私には訳が分からない。投票の結果、国民の賛同が得られなかったことに対して何の責任が生じるのか?(脱線するが、「国家国民への責任」がこの状況下で何を指すのかも私には分からない・・・。)
つまり、「国民の賛同が得られませんでした。政党の方向性を改めるためにトップを変える必要があると判断します。よって辞任します。」と潔く言ってほしいのだ。なぜならば民主主義の国なのだから。
それを、「選挙の敗北の責任を取って辞めます。」は民主主義の原理原則を理解していないように思える。あるいは身内のことを意識しすぎて、状況を客観的に理解できていないように思える。
これに対する反論としては「やり方が悪かったから辞任するのだ。政策は十分に良いのに、国民に十分に真意を伝えることができなかったことへの責任を取って辞任するのだ。」というのもありえるが、これはこれで非常に気持ちが悪い。有権者はバカで、政策の是非もまともに理解できないということか。また、そんなことを言い出したら選挙という結果をもって国会議員が選出されるという基本的原理はどうなってしまうのか?
以上、駄文でした。