なぜ勉強が必要なのか:教育のあり方について(2019年5月13日)

「●●なんて将来大人になってから全く使わないのに、なぜ勉強しなくてはいけないのか?」という疑問

勉強が嫌いな子供がよく使いがちだが、このフレーズはかなりよく耳にする。「●●」に入るのは、「数学」とか「世界史」とか「古文」とかの科目から、「三角関数」とか「フランス革命」とか「万葉集」のような具体的な内容まで、色々な場合がある。

これを聞くと私は「ごちゃごちゃ言う暇があったら勉強しなさいよ」とつい言いたくなってしまうが、この問題提起に今、自分なりの答えを書きたいと思う。

というのも、「将来使わないようなことを、なぜ勉強するのか?」という疑問に対する答えを持っている人は少なく、その結果として、きちんと物事を考えられる人が世の中に決して多くないのではないかと思うからである。

1.もし「将来使わないことを勉強するのは無意味だから止めよう!」となったら・・・

もしそんなことを言う人が文部科学大臣になったら、学校で一体何を勉強することになるのだろうか?おそらく、現行の教科で「生き残る」のは、

国語(日本語)、算数(四則演算レベル)、社会(地理、公民)、家庭(裁縫、調理)、保健体育、英語(基礎)

くらいなのではないだろうか。そして逆に、大人になってから「生活していくために」共通的に使うであろう事柄として、以下のような科目が必要になると思われる。

一般教養、身だしなみの整え方(化粧など)、パソコンスキル(メール、Microsoft Officeなど)、車の運転、自転車の漕ぎ方、各種家電用品の使い方

普通に生活していくための知識だけを勉強すればよい世界では、これくらいに内容を絞れる。おそらく、学校は週3日も通えば十分だ。残りの時間は遊んでもいいし、興味のあることに時間やお金を費やすことができるだろう。例えば、プロ野球選手になりたい子供は、とことん野球を練習したり観たり、、、というような時間の過ごし方ができる。

しかしこういった教育しか提供されない社会になったとしたら、その社会は発展するだろうか?私は発展しないと思う。むしろ、現状維持すらできないと思う。

それは何故かと言うと、幸か不幸か、これまでに築き上げられてきた知があまりに膨大であり、そして、それらによって作られたもので、世の中はすでに構成されてしまっているからだ。その今を現状維持するのには、当然これまでと同じレベルの知が必要になる。

それすらも捨てて、「日頃の生活さえできれば良い」と考えを切り替えるのは一つの方法だと思うが、そうなった途端に国力は落ち、長い目で見て国家としての主権を守れなくなり、それは大きな不利益に繋がるだろう。(極論、自分や自分の子孫が奴隷になることを覚悟しなければならない。)

2.それではなぜ、「将来使わないこと」を勉強しなくてはいけないのか?

上の議論で、「生活していくのに必要なことしか勉強しない」という社会は事実上不可能であるということは、なんとなく分かっていただけたと思う。

しかしながら、「なぜ2次方程式の解き方を全員が勉強しなくてはいけないのか?」という問題にはまだ答えることができていない。これに対する私の答えは2つある。

①思考力を養うため

世の中で何をやるにせよ、新しい物事を自ら考えて理解する能力は欠かせない。その能力に欠ける人間は、世の中の変化や物事に対応できず、すぐに最新の世代(若い世代)に代替されてしまう。そうならないよう、専ら思考力を養うために、将来使わないかもしれないが題材として勉強するのだ。

高校生が将来使うことのない三角関数の公式を理解したり、将来行くこともないヨーロッパの歴史を覚えるのは、新しい知識や概念をインプットし、その法則性や応用を理解するという工程を練習しているのに過ぎない。

ちなみに、この考えにもとづくと、ただの暗記で高得点が取れるようなテストを作るようなことは、授業料の対価としてあってはならない。暗記力コンテストをしているのではないし、暗記はそもそも紙に書いたメモやコンピュータがしてくれるからだ。

②一部の人は、得られた知識を専門的に扱うことになるため

ただの思考訓練ならば、わざわざ三角関数やヨーロッパの歴史でなくても、何かクイズやそれ専用の訓練を繰り返せばそれで良い。それなのになぜ、三角関数やヨーロッパの歴史を勉強するのか。

それは、将来科学者になる人には三角関数の知識が必須だし、外交官になる人には世界にあまりに大きな変化をもたらしたヨーロッパの歴史上の動きを学ぶことが欠かせないからである。

つまり、義務教育や高校で学ぶ事柄は、専門性の高い分野を学ぶにあたっての前提であることが多い。(逆の言い方をすると、そういうものこそ学習指導要領に含まれている。)

ただし本当は、将来外交官になるような人間が三角関数を学ぶ必要は無いし、将来工学者になる人間がヨーロッパの歴史を学ぶ必要もない。(全く無いとは言わないが、必要は低い。)

要約すると

「思考力訓練も兼ねているし、世の中の技術や知識を維持するためにとりあえず全員が勉強しておきましょう」という、ただそれだけの事なのだ。

3.ただ、「将来使うことがないことを勉強したくない」という気持ちもわかる

そりゃそうだ。勉強なんて別に楽しくない(ことが多いと思われる)。

大人になってから使いもしなければ考えもしない「酸素原子には電子がいくつあるか」というようなことは、テストで回答したが最後、それを専門としなければ日々の生活で考えることはないだろう。そのことを知っていても知らなくても、呼吸で取り込まれた酸素は赤血球が頑張って身体中に届けてくれるし、料理中に火が酸素不足で消えることもない。(途中から、酸素原子から酸素分子に話の対象が切り替わったことすら、意識しないはずだ。)

だから本当は、思考力は専用の訓練や義務教育を通じて身につけることとし、将来専門的な知識を必要とする職に就きたい人だけが、それ以上の勉強に取り組めばよいのだ。

勉強することを止めるかどうかは、「高校に進学するかどうか」、「大学に進学するかどうか」というような選択のポイントがある。つまり、「これ以上は勉強しない」という選択肢が日本に住んでいる以上は節目節目で提供されているのだ。

しかし、世の中はそれをあまり許そうとはしない。高卒や大卒であることが必要条件のようにみなされているからだ。

大人は「高校や大学で勉強してきたという事実」を重視する。

ここで言う「大人」は、「親」だけでなく、「世の中」とか「経営者」に置き換えてここでは考えてもらいたい。

普通の人間に求められているのは、第一に思考力・対応力であり、何か専門的な知識ではない。

しかし実際は、例えば「大卒であること」を「思考力があること」とみなしているから、募集要件に「大卒以上」と書き、専門的な知識を求めているわけではないから、「※卒業学部は問いません」などと書く。

確かに大学で何かしらの学問をした人は、知的好奇心が高く、入試にもパスした人材であるという評価を与えることはできると思う。しかしそれは、大学に行かずともすでに思考力を十分に備えていて、一線で働くことができる人を不当に排しているに過ぎない。(注:専門的知識を持っている人を求めるのであれば、大卒という条件を課す意味が分かる。)

高卒時点で働くのに十分な能力を持っているならば、授業料を払って大学で4年を過ごしてまで「大卒」という肩書を得る意味が本来は無いのだ。社会全体の視点で考えても、4年分の労働力が失われている。また、大学の4年間で将来使わないことを身に着けても、その時間に見合うほど賢くなれる人間はどれほどいるだろうか。むしろ、その4年間を自分の好きなことに費やしたり、働いたほうが、その人の人生が有意義になることはないだろうか?

そんな無駄を無くすため、経営者は本来、必要とする能力を応募者が有しているかを見極めるための仕組みを自ら作成し、門戸を広く開放したうえで、自力でふるいにかけるべきなのだ。そんなことができず、またこれまでの世の中が「大学に行くのは普通のこと」とみなしてきたから、大卒であることを当たり前の条件として課す。そして、出身大学の偏差値でその人の評価をある程度測っているのだ。

(注)「大学」は本来は純粋な学問の場であるのに、履歴書上でその人の能力を示すための存在意義が大きくなってしまっていることを指摘したいだけであり、偏差値の高い大学の出身であるほど思考力が高い傾向にあることや、大学に行くこと自体を否定しているのでは全くない。

4.私はこんな世の中がいい

以上、まとまりのない文章になったが、言いたいことをまとめると以下のようになる。

  • 勉強は、思考力を養ったり一部の専門人材を育成するために一律で課されているため、可能性を拡げるためにも全員が前向きに取り組むべきものである。
  • 勉強が嫌だったり、高等教育を受けるまでもなく思考力が十分にあったり、他にしたいことがあるのであれば、高校や大学に行かなければよいだけの話。ただし逆に中学までの義務教育で、必要最低限の知識や思考力が身に着く内容が提供されていることが条件になる。
  • 世の中全般は、高卒や大卒である事実やその出身校で人の評価を決めようとするのではなく、純粋にその人の能力を評価する術を身につけるべきである。これにより、「高校や大学に行かずとも思考力を十分持っている人」を正当に評価し、高校や大学に行くことが決して当たり前のことではない世の中にするべきだ。

つまり、「16歳で上場企業でバリバリに働いているエリート」とか「大学院まで行った研究肌の人」というようなフレーズが常識の、そういう世の中が私は良い。

以上、世間知らずの私が言うのもおかしな話ではあったが、個人的な考えを述べてみた。

5.あとがき

思考力は、適切な教育によって全員が同じ水準まで達成することができるものだろうか?それとも、そもそも先天的な要素が強く、同じ教育を施したときでも人によって達成度は大きく異なるのだろうか?

私は、実は後者側の考えだ。もちろん教育の中身は重要であるが、結局はその人が生まれたときから持っている能力が大きいと思っている。

仮にそうだとするならば、義務教育終了の時点で思考力の伸びしろがないと思われる場合、そこで勉強を終えることができ、様々な生き方が選択肢として溢れかえっていて、柔軟に選ぶことができる世の中であった方が幸せなのではないだろうか?

と思ったことが、この記事を投稿するに至った動機である。

また、この記事で書いた内容から、高校と大学はもっと少なくて良いという主張が素朴に導かれるが、私は必ずしもそうは思っていない。

もっと「働きながら学ぶ」という事があっていいと思う。働くと言えば、週5日を毎週毎年続けるというイメージだが、例えば週3日勤務であったり、数年間休める、というシステムがあって良い。その間、高校や大学で好きに学ぶことができる(もちろん授業料を払って)ようにできれば、それは素晴らしいことだと思う。

なぜならば、ここまで高度に考えたり学ぶことはヒトという種だけに許された特権であり、それは人間らしさそのものだからである。今は、学ぶ世界と働く世界が完全に切り離されてしまっているが、それらを自由に行き来できるようにすることが、本当はあるべき姿だと思う。

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