コロナ「自粛疲れ」や「自粛慣れ」について(2021年5月8日)

目下、4都府県(東京、京都、大阪、兵庫)で緊急事態宣言が発令されている。5月12日からは愛知、福岡も加わる。

ゴールデンウィーク前から、4都府県を対象とした緊急事態宣言と、各地でまんえん防止等重点措置が取られていたが、感染の拡大に歯止めがかからず、感染者数・重症者数は増加傾向が続いている。近日中に全国的に感染者数は過去最高を更新する可能性が高い状況だが、この感染拡大の要因として、「自粛疲れ」や「自粛慣れ」が言われている。

それっぽい言い訳をして自分の行為を正当化して、自分だけが感染して死ぬだけなら別に好きにしていいが、他者を感染させて健康を害することは許されるのだろうか?他者に感染させることで、直接的に死なせてしまうかもしれないし、重症者を増やすことで医療の負担を増やしてしまい間接的に死をもたらす(救えた命を救えなくする)かもしれない。こういったことを考えずに、あるいは考えても無視して自己中心的な振る舞いをするのは、今の状況ではあまりに無責任だ。

以前のような人との付き合い方ができず我慢できなくなる、というのは柔軟性・忍耐力が欠けており、「人として浅く、弱い」としか言いようがない。ただ、それでも別にいいのだ。もしそういった人々だけが感染して淘汰されるのではあれば。しかし、家族や関係ない他者を感染させてしまうことはあってはならないだろう。自分の大切な人を感染させて、亡くしてしまったとき、悔やんでも悔やみきれなくないか?

一方で、「いかに自粛破りをさせないか、また取り締まるか」も重要だ。

例えば路上飲酒は、迷惑防止条例の対象にするように各自治体で(一時的に)条例改正をするとか、何かしらの対応ができるだろう。路上飲酒をしている人々からひとり罰金5万円でも10万円でもとって、各種補助金の原資に充てたらいい。(ちなみにそもそも、路上のような公共の場で飲酒できる国の方が、世界的には少数派なのではないかと思う。)
余談だが、酒類の販売を規制するのは明らかに営業の自由に反していると私は思う。

加えて言いたいことが3点ある。

●その1:宣言した以上は、しっかり伝えて実行させ、平常時とのメリハリをつけるべきだ。

「無責任な人々」は批判されて当然であるが、一方で政府の伝え方が分かりにくく不十分ということも十分理解できる。「緊急事態宣言やまん延等防止重点措置を適用します」と言うだけで、具体的に行動が伴っていないように思う。

リモートワークやリモート授業を進めていない企業・学校に対して、是正の勧告をするような話を聞いたことがない。言った以上は、ちゃんと実行させるように働きかけるのも責任だろう。宣言した以上はしっかり実行させて、宣言下と平常時でメリハリをつけ、境目を作る。こうすれば、「宣言下は行動をしっかり適応させよう」と人々が自然に考えることができる。

また、新聞もテレビのニュースも見ない人がいたとして、どうやって今の宣言の状態を知ることができるのだ?全国民に要請する以上、ビラ投函などの努力をすべきなのではないだろうか。

●その2:具体的な行動水準と目標値を示すべきだ。

どうやったら宣言が終わりになるのかが示されないと終わりが見えず、途方に暮れてしまう。結果、平常時とメリハリがつかないこともあり、自粛を無視する人々が現れる。だから、「人との接触を70%減らしてください」のように具体的にどうしたら良いのかを明確にし、「感染者数が●●人まで下がったら宣言を解除します。」のようにゴールを示すべきだ。

●その3:緊急事態宣言を平常化して、適用レベルを設けたほうが分かりやすい。

個人的には、今は常に緊急事態宣言で良いのではないと思う。感染拡大防止を常に念頭に置く状態にあるので、緊急事態宣言がノーマルで良いと思うのだ。その中で何段階かのレベルを設け、適用レベルを一定の基準に則って淡々と適用していくのが分かりやすいと思う。

何より、ここ1年くらい観察していると、どうやら政治家というのは緊急事態宣言を出したくない人種のように見える。経済活動を制限することのリスクばかり考えているようだ。本来は、緊急事態宣言のような制限を出し渋ることはあってはならない。緊急事態宣言を出すのは前提条件であって、その中でいかにして経済活動を制限せずに感染拡大の防止の実現を両立させるかを考えるべきだ。

機械的に適用レベルを変えていくというルールを設けることで、今の政治家たちの出し渋りを防ぐことができる。国民からしても、今どうすべきかが分かりやすいし、将来の事態に備えることもできる。

 

長くなったが、まとめると

  • 我々国民は、忍耐強く、正しく自粛しよう。(頑張ろう!)
  • 政府や自治体は、国民が正しく自粛できるよう正確かつ十分な働きかけをすべき。

のような感じだ。

あと、最後に雑談だが、私は「自粛」という言葉を今の状況で使うのは、あまり好きではないなあ。「自粛」というのは、「自らを律して、行動を控える」というような意味だと思うが、今のこのコロナ禍では「行動を控える」というよりは「生き方そのものを変える」という風に考えるべきではないかと思う。

以前のノーマルという基準があって、その中の一部の行動を控えるのではなく、この状況なのだからそもそもできないこと(しないこと)が生じるのは当然と考えたい。別の言い方をすると、「自粛する」と思うから不自由に感じたり、場合によっては破ってしまうわけで、「そもそもできない」と思って受け入れてしまえばよいのではないだろうか。

 

コロナ「自粛疲れ」や「自粛慣れ」について(2021年5月8日)」への2件のフィードバック

  1. 管理人さん投稿ありがとうございます。
    たしかに管理人さんがおっしゃるとおり、いつまでどう我慢したらよいか
    わからず、漫然と緊急事態宣言が行われているので、従えない人が
    出てきている・・・という気がします。

    いっぽう、河原で外でバーベキューでお酒を飲んだりする人を見ると、
    「明らかにまずいと考えられることをなぜ我慢できないのだろう?」
    とも思います。
    こんなことで祖父母等を亡くしてしまったときに、本当に悔やんでも悔やみきれないですよね。

    結局個人の意識任せではいい結果にならないのであれば、ある程度法律等で縛ることもやむを得ないのかもしれないと個人的には思います。
    というか、全体の利益のための法律があることを考えると、管理人さんがおっしゃるとおり、速やかに条例制定等が必要なのかなと思います。

    国が個人の権利を縛る、という話になると反射的にアレルギーが起こりがちだと思いますが、全体の利益を果たすために立法府があることを考えると、
    ある程度、強力な手段を講じないと、いつまでたっても収束できない、(そしてそれが一番国民損失が大きい)となる気がします。
    なんだかんだで世の中、刑法や、非常に多くの規制など、やってはいけないことだらけなので、以前管理人さんがおっしゃっていたように、コロナもしっかり政治が徹底して対策していれば・・・と思います。
    今更悔やんでも仕方ないですが・・・。

    1. ピジョンさん、
      河原でバーベキューをする人たちって、「自分が感染していて周りにうつすかも、
      とは考えなかったのですか?」と問われたらどう答えるのでしょうね・・・。

      私も、法律で規制すべきところは規制すべきと思います。
      それが公共の福祉というものかな、と。
      必要な規制は受け入れる賢明な国民が増えるといいなあと思います。

      去年の今頃にコロナを封じ込めできていたら、どれだけ良かったでしょうかね・・・。

me へ返信するコメントをキャンセル