新型コロナウイルスは、人類社会にとっての困難と言えるほど、その猛威を奮い続けている。程度の差はあろうが、生活に何かしらの影響を受けていない人の方が珍しいのではないかとすら思う。
今回、この新型コロナウイルスに人類はどのように対処すべきなのかを考えていきたい。また、そもそもこういった新型ウイルスの発生(突然変異)は、今後もいつでも起こりうるわけであり、人類はどのようにウイルスと向き合っていくべきなのだろうか?
論理的考察、過去の歴史を踏まえて、考えていきたい。
0.はじめに
世界を見渡すと、新型コロナウイルスにより、現時点で非常に多くの死者(千名単位)が発生している国がある(具体的には中国、イタリア、イラン)。また、国土全体、あるいは州単位等で不要不急の外出を禁止する条例等が発せられている場合も多く見られる。こうなると、人々の心に恐怖が生じることと、経済活動の停滞が当然起こる。そこから(負の)連鎖的に様々な影響が人々の暮らしに生じることにつながる。
特に影響が大きいと思われるのは、人々が集まることを伴う活動で、これらは縮小・中止を余儀なくされており、日ごろからそれを生業としている人々は当然収入が得られない事態になっていると思われる。
そういった経済活動の停滞に、はじめは蓄えにより対処することができるが、収入が無い状態がいつまでも続くわけもなく、ジワジワと耐えられないケースが出てくる。つまり、倒産や破産が起きるようになる。そういった不安が世界的にも株価に現れており、大規模かつ長期に渡る景気停滞が現実味を帯びているか、あるいは既に具現化している。
1.社会はウイルスに対して脆弱である
一般に、ウイルスの拡散に対する対策として有効なのは、「ウイルスを伝染させるような媒介を無くし、すでにかかった人は隔離して完治させる。」ということだ。そのために有効なのは、今回の新型コロナウイルスでも既に様々な規模や場面で実践されているように、人々の往来の流れを切り、感染者を速やかに特定して隔離することである。
しかし、そもそも人類(というか現代社会)の活動と発展は、人々の流動性と集合により支えられている。これらが何かしらの事象によって妨げられると、社会全体の活動が麻痺してしまう。
しかし、いくらやり過ぎても悪いことは無い。歴史的に見ても、ペストは国家クラスの集団(あるいは場合によっては人類全体)の人口の数十パーセントの死者を出してきたし、100年前に流行したスペイン風邪は世界で数千万人~1億人の死者(世界人口の最大5%)を出した。そのようなことが起こるくらいならば、社会が麻痺するくらいは程度が小さいのかもしれない。ただ、それでも被害は甚大である。
ウイルスの蔓延を防ぐことは、当然必要なことではあるのだが、社会の痛みを伴うのである。すると、その痛みに耐えきれない人や集団が当然出てくる。さらに、その痛みが長期化すればするほど、痛みに耐えきれないケースが増える。
今述べたことは当たり前のことだが、次のことを考えてほしい。
「もし」である。この新型コロナウイルスの致死性や感染力がさらなる突然変異で高まったら世の中はどうなるだろうか?分断や隔離がこのまま何か月も続いたら?
あるいは、また来年にさらなる新種が出現して、猛威を奮ったらどうなるか?その次の年も新種が発生したら?
最悪のケースはテロである。ウイルスの”品種改良”を行ったテロリストが、新種のウイルスを世界中にばらまいたらどうなる?
このように考えると私は、新種のウイルスに対して人類社会はあまりに脆い、という結論に至るのである。
また、150年前なら、中国の武漢でクラスターが発生した新型ウイルスがこんなに早く世界に広まることは無かっただろう。日本に数か月内に到達することすら疑わしい。逆に今はお金とパスポートさえあれば、ちょっと行ってくるくらいの感覚で地球の裏側に行くことすらできるわけだが、その利便性と引き換えに、ウイルス蔓延のリスクを抱えているのだ。
2.対応・解決策
それでは、現代社会はどのようにして今回の新型コロナウイルス、および一般に新種のウイルスに対処したらよいのだろうか?
2-1.全人類の外出禁止が非常に有効
今回のように新種のウイルスが世界各地で流行しているとき、一番簡単な対応策は、全人類を隔離することである。つまり、世界で一斉にすべての人間が2週間程度、家に引きこもればいい。2週間で足りなければ、1か月でもいい。
その期間中に発病した(している)人間は、さらに別に隔離し、完治するまで隔離の外に出ることができないようにすれば、新型ウイルスが根絶されるのはただの時間の問題に思える。(また、大元のウイルス発生源を消し去ることも必要である。これは今回の新型コロナウイルスでは武漢のコウモリである可能性が高いらしい。)
しかし、全人類がそんな長期間、家に引きこもり続けることなど、可能だろうか?(もちろん、食糧生産、流通、ライフラインの維持等を考えれば、全員が家に引きこもるわけにはいかないので、必要最低限の人々の労働と活動は欠かせない。)
私としては、可能か不可能かではなく、「いざとなればやるべきもの」としか言いようがないと思う。
なお、2002~2003年に流行したSARSは2003年7月に封じ込め宣言が出されたが、累計の感染者数は8400名程度であったらしい。今回の新型コロナウイルスでは、すでにその25倍の21万人程度の感染が報告されている(2020年3月20日時点)。
この規模で、しかも世界中の至るところで感染者がいる状況で、普通のことをしていてウイルスの封じ込めができるのだろうか?もはや手遅れであり、残念ながら既に封じ込めには失敗しているのではないのだろうか?私は専門家ではないからよく分からないが、全人類の外出禁止は、やるならば早ければ早いほど良い、とだけ言っておく。個人的には、そうなっても大丈夫なような心の準備だけはしておく。(あとはお米と水ぐらいは買っておく。)
2-2.全人類の外出禁止が実行されない(できない)場合
言い方は悪いが、このままダラダラと時間が経っていた場合、どのようにして新型コロナウイルスは終息していくことになるのだろうか?
これを歴史から考えていきたいと思う。
1918年頃に世界的に大流行したスペイン風邪は、当時の世界人口約20億人の4分の1にあたる5億人が感染したと言われている。(死者数も数千万から最大1億人程度と言われている。)
ここまで甚大な被害をもたらしたウイルス(インフルエンザの一種であった)は、一体どのようにして終息したのだろうか?そもそも終息するということがありえるのだろうか?
私が調べたところによると、スペイン風邪のウイルスは、1918年~1919年に人類に感染し尽くした果てに終息したようだ。つまり、多くの犠牲者を出しながら、長い時間をかけて人類全体が免疫を獲得していったのである。(人類全体に蔓延することで、自然と病原体を少しずつ受け入れていき、免疫を獲得していった。)
また、ウイルスの中でも致死性に差があるとき、死者を出すような致死性の高いウイルスから順々に淘汰されていくはずである(宿主が死ぬので)。そうして致死性が少しずつ低下していき、少しずつ終息を迎えるわけだ。
・・・今回の新型コロナウイルスでも、そうやってゆっくり時間が解決することを待つしかないのだろうか。だとするならば、今夏の東京オリンピックは当然中止や延期ということになるだろう。(1920年のアントワープオリンピックの時は、それまでには少なくとも主要な参加国や開催国であるベルギーのあるヨーロッパでは、スペイン風邪は終息していたようだ。)
3.人類はどうウイルスに向き合っていくべきか?
今回の新型コロナウイルスは時間が経てば、犠牲を伴いつつどうにか終息させることはできるだろう。しかし、今後も一般にこのような防衛体制でいいのだろうか?
私は、以下のことに人類全体が取り組むべきではないかと思う。
3-1.デトックス期間を世界で一斉に定期的に設けてはどうか。
先に述べた対応策の延長になるが、定期的に外出禁止期間を設けてはどうだろうか。つまり、期間中は家庭内を除いて人から人への感染を一切発生させず、また各自の免疫が体内のウイルスをある程度撃退することで、感染のリスクをきれいさっぱり無くす、という方法である。もちろん感染者は隔離する。
あまりイメージしづらいかもしれないが、こうすれば、人類全体で保有するウイルスの量を大幅に減らすことができる。また、ウイルスを全体的に弱性化させることができる。
ということで、全世界で一斉に、1週間程度家に引きこもる期間を作る。こうすれば、人類全体で風邪やインフルエンザなどの感染症を抑え込むことができる。
私は、この取り組みが実施されたとき、世界からどれだけ風邪が減るか見てみたい。
3-2.人々の流動性の高さに依存した社会には限界がある。
運悪く、感染力の高い新型ウイルスが発生しただけで、多くの国や地域で大混乱が発生している。先に述べたように、毎年のように新型ウイルスが発生したら人類は持続することができなくなる恐れがある。
あるいは、話はそれるが、どこかの電車・バスの路線や新幹線や飛行機が1か月不通になっただけでも、人々の活動には大きな支障が生じる。
つまり、何かしらの外的要因によって人々が移動することができなくなる、あるいは妨げられることはいつでも起きうるのだ。
さて、技術的に、世界のどこにいる人に対してでもコミュニケーションを取ることができる世の中である。それなのに、わざわざ会社に出勤したり、学校に行ったりするのにはどういう意味や必要があるのだろうか?そこをまず根本から問い直さなければならないと思う。
つまり、例えば会社であれば、行う業務は本当にその場でないとできないものなのか?あるいは、現状の仕組みでは会社で行う必要があっても、オンライン化すれば自宅でも処理できるのではないか?この2020年時点の技術をもってすれば、突き詰めれば「会社でないとできない仕事」というのは極めて限定的なのではないか。
学校の場合は、友達と過ごすとか、体育の授業とか、家庭を離れて学ぶとか、色々な側面があるだろうから学校に来る意味は大きいあるものの、自宅学習を増やすことは不可能ではない。ちなみに、アメリカではホームスクールにより、自宅で教育を受ける子供が200万人以上もいる。これを考えれば、無理なことは全くないように思われる。(余談だが、私は日本でもホームスクールができればいいのに・・・と思っている。)
3-3.すべての人が自宅勤務・学習に耐えられるか?
さて、私の人生での経験・観察から言えば、人というのは群れていると安心する生き物である。集団の中にいて、そこから脱却しなければ集団にいることが自分を守ってくれる。自分だけの世界で生きていける人は多くないと思われる。
自宅学習であればおそらく親が家にいるだろうから、孤独に負けることはないだろう。しかし、一人暮らしの自宅勤務となると、最早自分と集団とのつながりを持てず、孤独に苛まれる可能性が非常に高い。
だから、結局はバランスを考えて、「自宅で勤務(勉強)したければ、自宅で勤務(勉強)していいよ」というルールを作ることが大事だ。
4.その他個人的に感じたこと
- 人前で咳やくしゃみをすることが、どれだけ不衛生なものかを改めて認識した。また、咳やくしゃみを抑えた手を洗わないまま、どこかに触ることの罪深さを広く認識する必要がある。
- 社会で生活をしている人間であれば、1日の中で「誰かが触れたところに絶対に触れないで生活する」ことは極めて不可能に近い。ドアノブ、エレベーターのボタン、物の受け渡しなどなど、日常生活のどこかで避けて通れない。
- ある意味、現代社会においては「ウイルスの共有」が起きている。しかも、世界規模での共有が容易である。
- しかし、自分の顔にくしゃみをしてくるような人がいなければ、ある程度の自衛はできる。つまり、他人が触れたところには触れないようにする、人が密集しているところは避ける、自分の口や鼻や目に触れないようにする、手洗い・うがいを徹底する、などの対策が取れる。
- 電車・バス・飛行機などの交通機関を考えても、何かのイベント等を考えても、隣の人と肩が接するほどの距離感というのはよくあることである。しかし、人々が近接しなければいけないことは、実はそもそも異常なのではないだろうか。他人との心理的・衛生的に適切な距離感はどの程度なのだろうか?私は個人的には1m程度だと思う。人々のライフスタイル全般を見直すべき契機にしてはどうか。
- 学校やら会社でも何でもいいのだが、始業時間が一律のタイミングであることに、今回の件で疑問を持つ人が増えてくれればいいと思う。一体何の意味があるのですか??
- 免疫力の高い若者はコロナウイルスへの感染率および死亡率は低い。免疫がウイルスに打ち勝つことができ、時間が経てば「抗体を持つ人」になる。一方で、お年寄りはどうだろうか?感染率は高いし、死亡率(重症率)も高い。合併症のリスクも高い。とするならば、お年寄りほど慎重に行動しなければならない。また逆に、お年寄りほど周りに感染させるリスクも高いわけであり、何とも難しさを感じる。。
「新型コロナウイルス(COVID-19)から人類とウイルスの戦いについて思うこと(2020年3月20日)」への14件のフィードバック